赤城山 南麓 宮城地区 ●よもやま話「消えた寺の痕跡「諏訪神社別当寺」」

 

2007年02月01日

●よもやま話「消えた寺の痕跡「諏訪神社別当寺」」

  いつの間にか、宮城地区の中で一番の物知り爺さんになっていた??それ…本当だろうか??実の所私にも分からない…しかし、知っている事、聞いた事、知り得た事はいくらか書いて置きます。後、どの位生きられるか分かりませんが。
  いま世の中は目まぐるしく変化しています。昔なら、人海戦術(部落総出)で土を動かし、石を動かし、建物を動かしていましたが、今は大型重機を使い、あっと云う間にやってしまう。知らぬ間に山が出来ていたり、山や丘が消えていたり、川や池が埋め立てられたり、地形の変貌は当たり前の光景になってしまいました。人は平気で先人が営々と築いた良田や歴史的価値のある所を、耕地整理とか何とか言う名目で壊してしまう愚行を犯す。正に、宮城地区も例外ではない。そして、時と共に全て忘れ去られて行ってしまう、何と悲しい事か。部落総出でやった事は誰かが、その時に起こった事を後世に伝えられるが、余りにも個人主義が尊重され過ぎている現在に於いては、何が起きても他人事…知っても知らない振りを装う、悲しい事である。先日も、とある会合の席で、子供達に協力して貰えば、子供達の為に…今のお母さん達は非協力的…えっ!!…ああ〜時代が違うんだ〜…、その話しを聞き、唖然とした次第である。戦後教育の悪例・我々世代の子育ての間違いを痛感した次第です。これは誰も責められない、日本人全体が犯した過ちと認識せずばなるまい。まあしかし、私の回りにいる青年達、世間の大人達からあまり評価されていない??、彼等の方が遙かに素晴らしい物を持っている。大人の目線で見てはいけないのかも知れないし、我々の尺度での判断は現に慎むべきなのかも知れない。同輩から聞いた話しを鵜呑みにするのか、彼等の側に立って、彼等の言行を理解し、双方のギャップをどう埋るのか、果たして出来るのか??永遠の課題・・何時の時代にも起きていたのかも??
  なんか難しい話しを支離滅裂に論じ過ぎた???…ただ黙々と、過去に起きた話しを書けば良い!!スミマセン!!
  時として、宮城地内の文化財を巡視していると、先人達による愚行も目に付きますもので、まあ、評価は時として一変しますので、何とも言えませんが…。 昨年、大前田地区にある墓地の一角で、素晴らしい五輪塔や無縫塔に遭遇いたしました。それ自体は余り古い墓石ではありませんでしたが、本当に立派な物です。今回、再訪した所、雑草に覆われ、五輪塔を見る事が出来ませんでした。
  聞く所によると、諏訪神社前のゲートボール場の辺りにあったのを移転したとの事でした。邪魔になったから、丁重に移転した??と理解しましたが、元の場所近くか、神社境内に移して欲しかったと思いました。坊主の墓石だから無理だって!!私はそうは思いませんが…先人がその徳を偲び造立したものなのですから…。 

法印権大僧都祐慶
   O宝永七庚 
                寅
   歳仲秋造

 
安永五丙十月廿日
      申
   中興開山法印決山

 
前総持当庵四世
万寿六代祖雄天苗
大和尚禅師
   文政丙七月五日
       戌
   尾陽之人事 (尾張出身?) 


大応牧僊和尚
安政四丁
     巳 (筆子の氏名が刻まれている) 
年十月二日   雲陽之産人 (出雲出身?) 


月鉤如津首座和尚 

  以上の五基と、数基の墓石を神社前から移転したそうです。
  この禅宗の寺は神社の東にあったそうで、旧後藤一太郎宅(現在無し)の事を、寺の後ろと称していたとの事。檀家は大胡の金藏院に引き継がれたそうだ。諏訪神社はこの寺の支配下にあり、この寺が別当寺であったのだろう。
  また、住職が村人達に読み書きを教えていたのか、墓石の台石に筆子達の名前が刻まれていた。それから明治初年には、此処で大前田学校が開かれたとの記録が残っている。
  篠薮に覆われた墓石群は数基が倒れたりして、無惨な姿を晒している。乞い願わくば、篠を刈り、墓石を起き上らせて欲しい。これは地域の人達の務めでは無かろうか??と同時に、寺と墓地の事を、末永く地域の人達に伝えて欲しい。