苗ヶ島・東宮家の家紋は「丸に隅み立て四つ目」
2012.06.21 Thursday/
天正18年(1590年)小田原北条氏が秀吉に敗れ・・・黒川谷の地侍達は北条側に与していた為にそれぞれ野に下った。わが先祖も三ヶ郷城を後にし花輪の里で修験寺光明寺を興し・・・されど我が家初代東宮六右衛門は家督を継ぐ事を許されなかった為に弟に家督を譲り、新天地を求め苗ヶ島へ、ここを安住の地と定めて既に400余年が・・・・剣の修行の為に大胡城下に通いし折りに、この苗ヶ島の「おびんづる堂」を住み家として上泉伊勢守信綱の元へ(お堂を管理する苗ヶ島の土豪、長岡氏との縁あり)
伊勢守よりの免許皆伝書(水晶の軸頭が付いていた巻物)が裏の3層の蔵に所蔵されていた。明治初年の火災で焼失したと東宮六郎治は伝えている。
お堂が望める高台に屋敷を構えたが、初代六右衛門は花輪の三島(三島神社)に隠居すと系図は伝えている。兄弟達と余生を共に過ごしていたのだろう、それから今日まで花輪の家とは交流がある。
花輪の家は明治まで修験寺光明寺と・・・明治政府により修験道が禁止されると神官となり花輪周辺の神社の宮司に・・・明治初年、姓を東宮から花輪に改める、由来は花輪山光明寺からとったと・・・・一説には本家、新宅で本家争いが生じ、なら姓を変えようと花輪姓にしたと漏れ聞いている。
苗ヶ島・東宮家と花輪家の家紋は
「丸に隅立て四つ目」である。
私の父は婿養子で川崎生まれですが旧姓も同じく東宮姓である。
父方のつまり私の祖父は花輪生まれで日本鋼管の初代社長今泉嘉一郎博士に連れられ鋼管の電気技師になったらしい。
先祖を辿ると、その家も修験道の社家であり、祖母の家も荻原の小林と称し修験道の社家であった。
以前、東京に住まう東宮伝叔父さんと熱海の東宮さんが共に家系図を作り持参した事が・・・我が家の家系図を一部分元にして作成されていたので後日花輪に出向き調べた。
花輪駅に隣接しているタカガイト東宮家の墓地を精査したら初代六右衛門の兄弟達とおぼしき墓石が・・・・花輪光明寺の墓地は花輪氏の自宅裏手にある。
高皆戸 東宮の家紋は
丸に梅鉢である。
私には花輪山光明寺の血とタカガイト東宮、両家の血が流れている。
花輪を出てから既に400年余・・・苗ヶ島・東宮家は今日まで絶える事無く黒川谷の人々との交流を続けている。江戸時代には黒川谷の土豪、松島氏からも婿養子を迎えている・・・・
小森谷家の人々との交流もそんな縁なのかも・・・・
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