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伊勢神宮の式年遷宮をお祝い致します。

 
昨夜は伊勢神宮の式年遷宮の日、62回目で西暦690年から始まったとの事。
三夜沢・赤城神社の奥の院の建物も復古神道の教えに基づき伊勢神宮と同じ様式の建物が明治初年に建てられました。20年に一度建て替えられるなんて凄い事ですね、費用も550億円・・・・とてつも無い金額が寄付により賄われる、その事事態凄いと言わざるを得ない。
現代社会に於いて国民に信仰されている事、その事事態が驚きである。


Comment:
2013/10/03 9:39 AM, noga wrote:
人間は、基準に合わせて判断を下している。
日本人の基準は序列である。序列の基準は現実の中にある。非現実の基準は考えることができない。
英米人の基準は ‘あるべき姿’ である。この基準は現実の外 (頭の中) にある。人々が求めるものは、個人の頭の中にあるリーズン (理性・理由・適当) である。
彼らはリーズナブルの範囲での決着を願っている。リーズンを失うことは恥である。この恥は、見栄とも外聞とも関係がない。

我が国においては、お上の言うことは、理由のあるなしにかかわらず、現実の基準 (錦の御旗) になっている。そうでなければ非国民 (非序列人間)。
民はお上に対して無防備・無力・無抵抗。’耐え難き’ を耐え、’忍び難き’ を忍んで、南の島に雪を降らせている。
民はたとえ反抗しても、筋 (リーズン) を通すことは難しい。筋により事柄を取り決める習慣が社会にないからである。

我が国の長は、自分が日本人の信頼を得るために、序列人間である証拠を示さなければならない。信なくば立たず。それには、神社参拝が必要である。カミに服従を示すことが欠かせない。
序列人間の長であることが人々に確信できれば、いったん緩急あれば、’たとえ火の中水の中’ という人間がいっぱいいる。ともに散ります国のため。かれらは、そうでなければ動かない人たちでもある。
だから、我が国の政治家は、英霊の御霊に追悼の念を表す際に、宗教家の手を煩わさないわけにはゆかないのである。

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