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観昌寺  前橋市西大室町 (真言宗 豊山派阿弥陀山 寶珠院 観昌寺)

実は今日、文化財指導員の会議があり、この地区担当の能登先生が宝塔の説明版の字が消えてしまい見えないと指摘されていた。

偶然、昨日拝見していたので、気になっていたので思わずうなずいた次第である。

なぜ観昌寺を訪問したかと言う理由は、菩提寺の金剛寺様に冊子の原稿を依頼されていたので、今回はさて何を書こうか?

と思案していたところ、過日、友人の奥様の法要で泉沢の天台宗円明寺を訪問したのが発端であります。

現在の御住職は中澤師と申しますが、先代の第25世、中澤賢性師が明治40年にこのお寺に赴任致しました。その前の御住職の夫人の実家が円明寺で、その円明寺の御住職の息子さんが観昌寺の住職の世話で豊山中学〜豊山大学へ、のちに第19代真言宗豊山派管長、総本山長谷寺73世化主に・・・

そんな経緯を知る事が出来・・・そんな経緯を書かせて戴きたく、取材に訪れた次第であります。

 

 

国定忠治と言えば、捕らわれる最後の最後まで「お徳さん」と言う方が傍にいたと・・・

その住んでいた家を移築したと伝えられています。(江戸時代中期、赤城南麓一帯で養蚕が盛んになると中二階にも蚕を飼い出し、明かり採りの為に前を切りおかっぱ頭の様な形に・・・赤城型民家と言う様う呼称が・・・)これ以前の建物の型は柏倉の国指定重要文化財の「阿久沢家住宅」です。

 

 

かって「赤城塔」と称されていた宝塔です。(南北朝期)

その昔、赤城了需と言う修験僧が赤城山に住んで修行をしていたと・・・30年間、一度も山を下りること無く天狗を友として・・・ある時に、世良田の月船しん海と言う方にお会いし・・・その方の世話で中国に渡り・・・師の13回忌をかの地で行った記憶が天台山の寺住の記録が今に残り・・・師が亡くなる前年に寺住としていた京都東福寺境内の塔に記録が・・・

実は、中澤賢性師が東京田端の與樂寺で入檀、最初の任地が鼻毛石の赤城寺(住職は中澤師)です。実は数日前にお嬢さんが與樂寺で得度したと昨日聞きました。その赤城寺の旧跡地が赤城山中の宿の平(忠治温泉)と言う所。

そこに、了儒が帰国してまもなく造立されたと思われる最も古い赤城塔(元亨4年銘)がある。