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商工まえばし 7 に投稿の原稿「円明寺〜観昌寺〜与楽寺〜赤城寺と金剛寺を繋ぐ糸」

 

 

 

 

円明寺〜観昌寺〜与楽寺〜赤城寺と金剛寺を繋ぐ糸

金剛寺第20世に中澤賢濟師と言うお方がおられた。金剛寺を離れてから何通かの手紙やハガキが我が家に届いている。昭和3年には与楽寺から、翌年には朝鮮の馬山から届いていた。以前からその足跡を調べたいと思いつつ10年余りが経ってしまいました。しかし、今年に入り、法事で泉沢町にある天台宗円明寺を訪問する機会を得、そこで庫裏に掲げられていた今東光和尚や会津八一の書額を拝見し、先代住職の交流の深さに感銘いたしました。そして先代住職であられた室生貞信師を調べましたら、師は西大室の豊山派観昌寺の室生大応師の息子としてお生れになられておりました。父親が33歳で亡くなりましたので、母親の実家円明寺に戻り育ちます。母親には二人の弟がおりまして、一人は東京の天台宗の寺院の住職になられ、もう一方は兄の世話で東京の天台宗寺院に入りますが、そこの住職が還俗したので、実家に戻ります。それから義兄夫婦がいた前橋の豊山派東福寺で世話になります。義兄夫婦が観昌寺に入ると同行致します。観昌寺住職中澤賢道師が亡くなり、本葬儀の導師を西新井大師住職でのちの豊山派第三代管長平常識僧正がつとめられます、観昌寺法類として与楽寺住職の広瀬賢信僧正(第64代総本山長谷寺化主)が同道いたしました。葬儀の折、その接待役を務め、認められ義兄の勧めもあり与楽寺へ、与楽寺には受入の余裕が無く、そこから広瀬僧正の法兄である城官寺中村師の元に、そして与楽寺道場に於いて、広瀬僧正のもとに出家得度し慶信と名乗ります。実は、中澤賢道師の姉夫婦の四男中澤賢性師も広瀬僧正の元で得度いたします。そして最初の任地が赤城寺です、赤城寺のあと、大胡の金蔵院へ、そして観昌寺住職室生大応師が亡くなると後任の住職として観昌寺住職として赴任致します。さて中澤賢濟師の出目はと赤城寺の御住職をお訪ねして御教導を賜りました。しかし、賢濟師は賢性師の兄弟で有ると伝えられておりませんでした。賢性師の墓碑には遺弟の存在が記されております。その後、赤城寺御住職に「中澤家系図」と「与楽寺法類系譜」等を拝見させていただきました。またその後、長岡慶信師(第73代総本山長谷寺化主)の「慶信まんだら」と言う本をお借り致し、より詳細なる事が分かりました。

尚、金剛寺に於いて、豊山派管長大僧正広瀬賢信猊下の台臨を招請し鐘楼堂初撞式及び入壇灌頂法会が盛大に挙行されております。赤城寺様からお借りした関係書類を整理すると越後国鎧郷村の中澤六右衛門の長男善性(文化八年生まれ)が仏門に入ります。家はな与と言う娘が婿を迎えあとを継ぎます。次男の賢道も仏門に入ります。善性(栄阿)は後に、江戸鷺宮福蔵院住職になられます。善性も賢道も師僧は音羽護持院四十七世権僧正栄性師です。賢道は原市万福寺、日輪寺、松井田不動寺等の住職をつとめ明治30年に観昌寺住職に転じ35年に亡くなります。鎧郷の実家を継いだ姉の息子である賢性師は叔父坊の賢道師を師僧として修業に励み、明治28年与楽寺広瀬賢信師に入壇29年、赤城寺住職拝命。じつは明治5年まで僧侶の妻帯は浄土真宗以外許されていませんでした。しかし、明治5年の太政官布告「僧侶肉食妻帯畜髪並二法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」により妻帯が許されます。善性、善道の時代は妻帯が許されていませんから、世襲は不可能でした。では・・・?県内で同時代に活躍されたお坊様がおりますが、じつは僧侶の息子として生まれています、妻帯が許されていない時代の事で、お坊様のお相手の方は同居はもとより妻とも認められませんので、生まれたお子様はお坊様の妹の子供として育っており、後年、著名なお坊さんになられています。聞くところによると京都の祇園の舞子さんの旦那様の多くがOO山のお坊様であったと・・・よなよな遊里に・・・お坊様も人の子ですから・・・・。長岡慶信師が父親からの遺言として残された言葉は「素人女には手を出すな」だったと・・・血脈とは仏教用語で教理が師から弟子へと伝えられていく事で、代々の血の繋がりはありませんでしたが、明治5年より、血の繋がる子供が寺を相続できる様になりました。これも血脈に他なりません。赤城寺では奥様が仏門に入り後継者になられお寺を守られておられます。今年はお嬢様が与楽寺に於いて得度をなされ後継者になられるそうです。観昌寺様も御子息様が後継者として活躍なされています。

中澤賢濟師は昭和27年10月21日、上里見の東光寺で亡くなられていました。(83歳)