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戦死者の村葬記録(旧宮城村) 商工まえばし3月号

 

 

戦死者の村葬記録

家に残る書類整理をしていたら、昭和13年2月18日に旧宮城村で行われた「故陸軍歩兵曹長清水三郎・故陸軍歩兵上等兵六本木清作・故陸軍歩兵上等兵高橋松伊・氏村葬儀次第」なる印刷物が目に留まった。

時の村長田島荘次郎を委員長に、副委員長は助役と分会長、委員に村会議員、区長や各種団体の正副や神職と僧侶、学校長が名を連ねていた。

葬列順序略表(神式)を見ると如何に盛大な村葬が行われたかが伺われる。

先頭を警官ー青訓生ー小学校生徒ー喇叭手ー高張ー榊ー供物ー花輪ー神官ー儀仗隊ー供物

ー斎主ー銘籏ー霊柩ー儀仗隊ー遺族ー葬主ー親族ー役場史員ー区長ー農会長ー村会議員ー

小学校校長ー分会長ー軍友会員ー消防組員-ー青年団長ー国防婦人会ー女子青年団ー赤十字社員ー愛国婦人会員ー一般会葬者と葬儀に参列した会葬者が会場である宮城小学校校庭を埋めた。当時を知る人を探したが、いかんせん今から既に80年近く経っているので、当時の記憶を繊細に留めている人は皆無に近かった。88歳の地元の方が英霊を迎えに大胡駅に行った事と饅頭を貰った事を鮮明に覚えていると語ってくれた。実は村葬に付いて調べた所、全国的にこの時期を境に各地で行われている事が分かった。昭和12年7月7日、中国北京郊外で発生した盧溝橋事件により日本と中国が戦争(支那事変)状態に発展(宣戦布告無き戦いの為に事変と称した)。

9月18日には苗ケ島町出身の陸軍歩兵上等兵六本木清作(23歳)が北支で戦死、続いて柏倉町出身の陸軍歩兵上等兵盒蕎尚砲山西省忻口鎮の戦いに於いて戦死、所属部隊は戦闘膠着状態の戦場に10月22日到着し参戦。10月24日、到着部隊の活躍により激戦の末に膠着状態を打開、その戦闘中に壮烈なる戦死をした。その折の軍功により功七級金鵄勲章を授与される。11日に中国軍が総退却するまでの週間にわたって激しい戦闘が繰り広げられ、山西省で最大の激戦となった。この戦いの戦死者は1651人、負傷者4594と報告されている。

日本軍は11月に杭州湾敵前上陸作戦を行い、11月14日に苗ケ島町出身の東宮鐵男大佐(44歳))が浙江省平湖県に於いて戦死、12月10日には首都南京城攻城戦に突入、南京城南側の城壁は高さ約20M、絶壁の様にそそりたつ巨大な壁でした。

城壁の一部を1200発の砲撃で崩しました。12月12日、この南京城南側「雨花門」攻撃戦に於いて、鼻毛石町出身の清水兵曹長(36歳)は決死隊に加わり70mの堀を泳ぎ渡り城壁一番乗りを果して城壁上に日章旗を高く掲げました。そこで敵弾を胸に受け壮絶なる戦死、その第一番乗りの功績ににより金鵄勲章を授与されました。当時、東宮鐵男の葬儀を控え、議会で対策が練られ、満州での活躍が世に知られていた東宮と、軍功あると言えども葬儀を同時に行なう事は不可能であったので、3人の戦死者を村葬と議会決議。13年2月18日に3人の英霊の葬儀が執り行われました。9日後の2月27日、陸軍歩兵大佐東宮鐵男の葬儀が苗ケ島町の東宮家菩提寺金剛寺に於いて東宮家葬儀として執り行われましたが、葬儀は村葬の式次第をもとに村長以下村関係者により執り行われました。

陸軍省、拓務省、満州国、満蒙開拓諸団体、知事や市町村長等、各方面の著名な方々が参列した盛大な葬儀になり、葬列が大胡まで繋がったと語り伝えられています。(葬儀の導師は東京都北区上中里真言宗豊山派城官寺住職長岡慶信師・泉沢町円明寺出身・のち長谷寺第73代化主・第19代豊山派管長)満州では慰霊祭が盛大に催されたり、東宮神社や東宮公館の建設、伝記の発刊などが満州国協和会事業として始まりました。

昭和14年以降の旧宮城村出身の戦死者数は、昭和14年7名、昭和15年6名、昭和16年2名、昭和17年14名、昭和18年26名、昭和19年81名、20年70名、昭和21年7名、昭和22年2名と記録されています。

 

                                        赤城温泉 御宿 総本家 東宮惇允