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金蔵院川の由来(苗ケ島町の二重橋付近から上流をそう呼ぶ)

五月も残り僅かに・・・九州地方が入梅に入ったとの予報・・・鬱陶しい日々が続く・・・

でも今現在は恵みの雨を待ちわびています。る

ここ数日は自宅での作業が出来ずにいますが、これからまた再開をしたいと思っています。

この数日は、先日、元村長の櫻井敏道氏から調べて欲しいと頼まれた、苗ケ島町の二重橋付近を流れる川が「金蔵院川」と呼ばれているが、上流部の阿久沢家裏手の林の中に金蔵院が有ったと言い伝えられ、石宮がある。それを調べて欲しいと櫻井さんが知り合いから依頼されたそうで、その話が私の所に回って来た次第。一度は調べましたが、金蔵院なる寺院が存在している記録は苗ケ島の古記録の何処にも無いとお伝えしました。しかし、大胡町に金蔵院と言う真言宗豊山派の寺院があり、大前田に檀家が有るので,江戸時代以前に金蔵院川上流部に、その名の寺院が存在していたかも知れませんので、大胡の金蔵院の歴史を調べましたら、金蔵院の名の由来は新しく該当しないことが分かりました。

そうこうして1ケ月・・・柏倉町にある前橋市指定重要文化財「丸山の碑」の件で碑文作者の上野南渓に付いての略歴を調べる関係で宝暦〜明和の五人組帳と享和元年の宗門改帳を調べていたところ「金蔵院」なる修験者の名が出て来ました。

 

宝暦十一年(1761年)

家主當山之山伏田畑合壱反歩

一 金蔵院 歳三拾四

母   歳七拾三

女房  弐拾五

〆男壱人

 女弐人  私一家分

      金蔵院 

 

明和三年(1766)

家主 當山之百姓山伏田畑合壱反歩

一 金蔵院 歳三十九

母    七十八

女房   三十 

〆三人内 男壱人

     女弐人  私一家分

          金蔵院

 

享和元年(1801年)

勢多郡江木村修験真言宗

快乗院旦那 瀧沢院 満弐拾五歳

同宗同寺 父

      金蔵院七十四歳

 

江木村快乗院所有文書

享和元年三月

為取替申濟口証文之事

(苗ケ嶋当山修験瀧沢院女房密通一件)

苗ケ島村訴訟人瀧沢院相手同村重右衛門

 

つぶれ

 

前橋市江木町に快乗院なる真言宗当山派の修験寺が有りました。

ここが勢多郡内の当山派の宗務所の役割を担っていました。

ですから、本来は苗ケ島村真言宗金剛寺の檀家で有るべき金蔵院なる名前の修験者の記録が金剛寺の記録には掲載されていません。

五人組帳に依りますと金蔵院の息子は瀧沢院と称しています。

享保の五人組帳には二人の修験者の名前が記載されていますが、金蔵院との関係は判明出来ませんでした。

何れにしても一代限りの名前なのでしょう、その者が、該当地域に住み暮らして加持祈祷等の修験者の行事で生計を立てていたのでは無いかと想像出来ます。田畑1反歩ほどでは一家を養うのは無理です。

享和元年の金蔵院の息子瀧沢院の女房の不義が発覚して宗務所である快乗院への訴え・・・訴えられた相手の重右衛門に付いては、

何処の家であるか分かりますが、享和元年の宗門改帳の記録が火災により大半焼け焦げていますので、年齢の判別が不可能なので

女房の相手なる者の詳細が分かりません。言える事は部落内の有力者の家で有る事・・・

貧乏な修験者の女房に手をだす!?・・・・もしや脅しで金を・・・

何れにしてもその後、この瀧沢院は潰れ・・・村内に住めなくなり何処かへ逃げて行く・・・私の想像ですが・・・

私め重右衛門の子孫とは長いお付き合いをしていますが、恐らくこんな話は知る由も無き事と・・・・

 

本題は恐らく、川筋に金蔵院と言う修験者の住むあばら家があり、彼が川で大声を出しながら禊等をやっており、付近の住民が金蔵院の使う川からその名が使われ出したと想像・・・・かな?