第31話 赤城南麓よもやま話 「臭〜い話」

2006年03月06日
●よもやま話「臭〜い話」
 昭和30年前後の話、「アメリカ人つうのは、肥だめの掛かった野菜なんか絶対に喰わねえーんだっ、つうぞ!!科学肥料じゃあ、ねーと、駄目なんだっ、つうで!」何んて、噂話を聞いた憶えがあります。そんな昔の話ではありません。でも、もう50年経ちますか・・・。
 昨年のニュースで、中国野菜の中に「寄生虫の卵の話が」ありましたが、それって、人糞・・・?そう、「肥だめ」です。掛けていなければ出ないはずなんです。50年経つと、我々日本人もアメリカ人並になったのでしょう。しかし、昔は、これが無ければ、米も野菜も出来なかったんです。
 便所の汲み取りの利権は想像し難い程すごい物でした。特に、江戸からくみ取られた「おわい」は武州・川越等へ船で運び出され農家の肥料とされたのです。長屋(現代のアパート)を例にとると、当時、便所は全て共同で、その便所の権利は全て大家さんの物でした。10人位の借家人で、2分〜3分。20人の借家人で1両〜1両2分位になったそうです。
 昔の人なら覚えていると思いますが、天秤棒で2ツの「ため桶」を担いでいましたが、2ツの桶で「一荷」と言いました。この一荷に含まれる肥料成分は「硫安」と「溶成燐肥」に換算すると約5K分に相当するらしいです。1年間で1人が用をたす量は、平均桶「20杯分」だそうです。当時、江戸は100万都市でしたので、そこで、生成された下肥は化学肥料に換算すると約5万トン分に相当するとの事です。
 その中でも、大名屋敷、金持ちや、料理屋等々の旨い物を食べている便所の物は高値で取引されたそうです。そうそう、江戸でなくとも、当時、苗ケ島の温泉宿から排出された物にもかなりのプレミアが・・・。下村の人が買い取り、この山道を、エッコラ・シャッコラ、ピチャ・ピチャさせながら担ぎ下ろしたそうです。今みたいな良い道じゃあ無いんですよ!!
 変な話でゴメンナサイ。