第91話 赤城南麓よもやま話 「北爪氏と女渕衆」

2006年07月19日
●よもやま話「北爪氏と女渕衆」
 苗ケ島城・苗ケ島本城・柏倉砦・市之関城・大前田城等々が、この宮城地区にはある。城と言っても、堀を巡らし、柵を巡らした砦程度の構造であろう。桐生にある国指定の彦部家を見学したら良い。その程度の物である。大名が建てた城を連想されては困る。
 苗ケ島城には阿久沢氏が、柏倉には大崎氏の砦と六本木氏の砦が、市之関には阿久沢氏の城が、大前田も阿久沢氏が城主として活躍していたらしい。何故なら現在も彼等の子孫が、そこに住んでいる。そして現在も、その子孫の末裔達は、地区でリーダーシップを取っている。牛耳っている!!??何んて言葉を使っては、お叱りを受ける??かも…。故阿久沢嘉重郎元村長や赤城南麓森林組合長の阿久沢勝史氏等が、その末裔である。地区の人であれば、よく御理解して戴けるであろう。
 その他の地区の子孫の方々も各方面で活躍している。しかし、鼻ケ石の北爪氏は地区内に城跡の痕跡が無い…何故なのだろう…将監達の活躍は目覚ましいものがあったというのに…。
 多分、それらの人々より、一ランク上の規模で活躍していた…のでは…と、と同時に粕川町にある女渕城を本拠地として…。
 阿久沢一門の紋所は表紋・裏紋の区別を別にすれば、ミツウロコを使用している。ミツウロコは小田原の北条氏の紋所である。この地区の土豪達が、その組下で活躍していた証拠である。
 今、NHKの大河ドラマで放映されている、山内一豊の主人豊臣秀吉がいよいよ天下統一に動きだした場面をやっているが、正に関東の覇者、北条攻めが始まろうとしている。その任を任されたのが、徳川家康である。そして、迎え討つ側の北条軍に加わっていたのが、我々の先祖達であった。
 名胡桃城事件を理由に豊臣軍の上野侵攻が開始されるのは、天正17年である。徳川家康に小田原征伐の命令が出されたのはその年の12月13日であった。そして、北条氏は、支配地域全域に軍事動員を掛ける。猫もシャクシにも槍・鉄砲を持たせ??まるで、60有余年前の敗戦直前…の様…??。根こそぎ動員を掛け臨戦態勢を敷いた記録が他県には残っている。上州では、そこまででは無かったらしいが、何れにしても臨戦態勢は敷かれた。
 その年の2月21日、北条氏直が女渕五郷(女渕・鼻毛石・苗ケ島・友成・深津)の女渕地衆と呼ばれる者共を組織化している記録が残っている。税金を免除してやるから働け!!と言う訳である。その記録の中に出て来る北爪一門に関する名前は、北爪大藏・北爪将監・北爪甚内・北爪与兵衛・北爪大膳・北爪織部等である。女渕衆の構成員には、阿久沢氏や六本木氏の名は見られない。彼等は違う集団を組んでいたのであろう。
 そして、豊臣氏の前に崩れ去る小田原北条氏…。負け組…に組した我々の先祖達は徳川氏の下で帰農していったのである。一部、優秀な剛の者は、徳川軍の中に拾われて行った。ある者は、加賀・前田家に仕官した者も…。
 女渕城跡は一見の価値あり!!北爪一門を中心とした女渕衆が守った城跡である。