みかんの思い出

 
1月25日の産経新聞の記事に「おこたでミカンの光景、どこへ消えた・・・・」の
記事が掲載されていたのをMSN Japanのネットニュースで読んだ!

ミカン・・・
みかん運びのお陰で大学の学資や旅行費用を稼いでいた私・・・・。
所は今は無き、JR新橋駅近くに有った貨物専用「汐留駅」構内、汽笛一声新橋を!!・・・明治時代初めて鉄道が敷かれた始発駅「新橋駅」の遺構が構内に有りました。
大学時代・・・・誰に紹介された?・・・もしかすると応援団の先輩の紹介?・・・最初はただ働き?
記憶は定かでは有りませんが、構内に有った「日本通運汐留営業所・混載4班」に所属しました。
確か最初は荷物の積み卸しの仕事・・・・築地の魚市場に良く行っていた記憶が・・・
夜の8時から朝の6時までの仕事です。市場の中は仲買人の威勢の良い連中が多いいので元気の良い学生を欲しがっていたのかも?
汐留に到着した貨車にトラックを横付けして荷物を積み込み市場に運び込み下ろす仕事です。
市場は8時から競りが始まるのでの1時間前位に下ろし終えないと、市場場内が買い出し人の車で身動きが取れないほど混雑してしまうのです。
配送伝票を6時頃に貰い、荷を積んで神田青果市場や築地市場に向かうと帰って来れなくなるんです。
「沈没」と言ってトラックが身動き出来ず、市場の競りが終わる頃まで動けない・・・・。
当時のミカン箱は一箱15k、それを満載に積んだ貨車が200両?・・・毎晩汐留に到着。
それを一晩で神田青果市場や都内各所(新宿青果市場や多摩方面)、埼玉、横浜、川崎方面の市場に運ぶのです。
最少は荷物の積み卸しのアルバイト・・・・免許証が有ると言う事で混載4班の班長が運転手をやれと言う事で何時のまにか運転手になりました。
混載4班の社用車は主にジュピターと言う中型車でした。
6t のトラックも有りましたが、主に普段乗っていたのはお馴染みの「黄色の日通トラック・ジュピター」でした。
混載4班には20台近く有った様な・・・・どの車も自由に使っていた記憶が・・・しかしどの車もポンコツで・・・日勤の方の運転方法により癖が有る車ばかりで、中にはギアが中々入らず往生した事が度々有りました。
一台に15kのミカン箱を300個と数個積み込みます、神田市場ですと朝までに毎日4往復します。
ジュピターですと助手は無しで6t車ですと助手が一人付きます。12tだと2名だった記憶が・・・。
ミカンの季節になると混載の班長から電話が掛かって来るので、ミカンシーズンだけ手伝いに行きました。
クリスマスの夜なぞ、溜池〜四谷を通り、新宿は物凄い賑わいでした、その中を新宿駅脇のガードを潜り新宿市場に・・・・
夜の8時から仕事を始め、12時には食事の時間なので1時間ほど新橋のガード下等で昼御飯?
を食べました。その頃、新橋駅の東口には舞台が・・・その廻りにルンペンの方々が近くの飲食店の残飯で宴会?をしていました。俺の夕食より豪華でステーキなぞ食べていました・・・・。
羨ましく思った事も・・・・
朝6時に仕事を終えると・・・・残業も結構有りましたが・・・・それから構内にある「風呂で一風呂浴び」東池袋5丁目ー10−00番地の小林さんと言う下宿先へ戻り、それから学校へ・・・・
教室ではグーグー居眠り・・・・
冬場、日通では東北から多くの方々が稼ぎに来られ、品川の倉庫の上層階が宿舎になっていました。
来たての頃に混載4班にも配属されますので、その方々と仲良くなり、本来は私はその寮に出入り出来ないのですが、彼らが分からないから「メシ」を食いに来いと言われて良く食べに行きました。
御飯と味噌汁は食べ放題、それが何よりでした、東北の方々は純朴で親切な方々が多く、故郷に残した家族や子供達の話を聞かされました。
出稼ぎ人が増えて来ると私の仕事も終わりに・・・・
数年日通にお世話になりました・・・・
その後、ギックリ腰になり、立ち会いと言う仕事をしましたが、ずっと運転手当を頂戴していました。
貨車から運び出された荷物の数の確認作業です。
当時の貨車の横には「ワム・ツム」などの記号が・・・
汐留構内には多くの貨物が野積みになっていましたが・・・検査後に・・・貨車の作業員がその中の箱を空の貨車に積み込み走り去っていく姿を何度か見ました(盗み)・・・ウイスキーで有ったかも?
色々の経験を・・・交通事故・・・・
私も箱の脇を少し開けミカンを1ヶつまみ出し良く食べました・・・・10箱開ければ10ヶですから・・・・
有名産地のミカンの味は格別・・・我々庶民の口には到底入らない名品を味合わさせて貰いました。

三菱ジュピター (ガソリン車)

TllGBH型‥…4メートルテデッキ   TllGAH型‥…3メートルテデッキ   TllGAD型‥…ダンプ・トラック  これまで日本で活動するトラックは小型車は2トン積まで大型車は5トン積以上でしたので、その中間の中型トラックは久しい間皆様かち要望きれていました 新三菱重工がその精鋭の技術陣を総動員してこの要望にこたえたのが三菱中型トラックジュピターでず

特色

●日本でこれまでになかつた高性能の本格的中型トラックです。●世界的名声のジープ・エンジンをトラック向きに改良した強力なガソリン・エンジンです。●運転操作が非常に容易で運転席はゆっくり3人掛ができます●乗用車並の乗心地 居住性で長時間運転しても疲労感を覚えません。●中型トラックとして馬力 重量 積載量などすべてバランスのとれた設計です。●燃費が少なく維持費がかからず整備し易い経済的なトラックです。

 乗用車ムードの乗心地・・・・・・

●広い視野を持ったパノラマ・ウィンドウ安全度の高い強化ガラスのウィンドウは広い視野を持ち運転の疲労を軽減しています ●軽快なステアリング・ハンドルとリモート・コントロールのレバーはステアリング・ハンドルの右側にありますので3人掛の時でも支障なく操作できます軽快なステアリング・ハンドルはフル・シンクロメッシュのトランスミッションと相まって運転操作を非常にスムーズにしています ●吊リペダル クラッチブレーキやアクセルのペダルは吊り式になっていますのでエンジンやブレーキシューよりの不快な振動が伝わりませんまたエンジン・ルームとの間を遮断しているため 防音 防寒 防塵の効果をあげています ●3人掛の快適な運転室は乗用車なみの装備をもち居住性も乗心地も乗用車と少しも変りません シートはゆっくり3人掛ができてやわらかいラテックス・スポンジ製ですからいつも快適な運転を楽しんで頂けます長い時間運転しても疲労感を覚えないという点が大きな特色です

三菱・ジュピター 3メートルデッキ車













おこたでミカン」の光景、どこへ消えた…電気こたつの国内生産“激減”

産経新聞 1月25日(土)21時30分配信

「おこたでミカン」の光景、どこへ消えた…電気こたつの国内生産“激減”

電気こたつの国内生産台数とみかんの出荷量(写真:産経新聞)

 電気こたつの国内生産が激減している。マンションなどでエアコンが普及したほか、部屋の保温性が高くなり、和室が減るなどしたためとみられる。一方、昔はこたつの上に必ずと言っていいほど置かれていたみかんの出荷量も大きく減少している。ほかの果物や菓子などスイーツが多様化したことも原因として考えられるが、こたつとみかんの減少に相関関係があるとの仮説を立て、オフィスなどのデスクやテーブルの上にみかんを置く運動も現れている。いずれにしても、こたつとみかんという当たり前だった冬の日常が、過去のものになりつつある。(張英壽)

 ■急な右下がり

 電気製品などの生産実績をまとめた経済産業省の生産動態統計。この中で、電機メーカーでつくる日本電機工業会(東京)の平成2年からのまとめによると、電気こたつの国内生産台数は、2年は約178万台だったが、9年には100万台を割り込んで約92万台に落ち込み、15年には9年の4分の1近い約24万7千台にまで減少した。国内で生産しているメーカーが少なくなったため、16年以降は調査対象から外され、現在に至っている。

 一方、農林水産省の統計では、みかんの出荷量は昭和48年に約305万トンだったが、徐々に減少。平成2年には半分以下の約148万トンにまで落ち込んだ。さらに、14年には100万トンを割り込む99万6500トンを記録。15、17年は100万トンを超えたものの、傾向は変わらず、24年は約75万7千トンにまで縮小した。昭和48年と比べると、5分の1近くになっている。

 電気こたつの生産台数、みかんの出荷数を折れ線グラフにしてみると、いずれも急な右下がりなるが、こたつのほうがより減少幅が大きいように見える。

 だが、こたつは海外生産で生き延びている。

 「現在は国内で電気こたつをつくるメーカーはほとんどなくなった」

 電気こたつをつくり続けている電機メーカー「小泉成器」(大阪市中央区)。商品事業統括部で冷暖房空調機器を担当する永野健輔課長(45)はこう指摘する。業界では平成7年ごろから人件費が高い国内から、東南アジアや中国などに生産拠点を移しているという。

 同社では現在も約20種類の電気こたつを販売しているが、ほぼすべてマレーシアの工場で生産している。

 冬にこたつを使う習慣は、日本以外にはない。エアコンやほかの家電製品も同様に海外で生産しているが、それらは日本以外の国でも使われる。電気こたつは、国内でしか利用されないのに、ほとんどが海外でつくられている。逆説的な現状だ