大友林兵衛(真庭念流宗家より目録授与)の弟の養子である田口永八郎(赤堀・本間念流後継者)は共に居合の名手で有ったとか


今日、斎藤玉男の足跡を探る目的で斎藤家の墓地を調べに元宮城村長の櫻井敏道(義姉の実兄)さんと上毛新聞の塚本さんの3人で行って来ました。・・・その折、斎藤多須久翁夫人の墓石の銘文に横室大友家と言う文字が刻まれておりまして・・・・
我が家にも、そして分家にも横室の大友一族から数代に亘り婿入り、輿入れが繰り返されていた事が分かりました。
それは斎藤家にも・・・そして斎藤玉男先生のお父さんは富士見の小沢の佐鳥家から婿入り・・・
富士見との交流の深さを肌身で感じたひと時でした。
2006年に書いた「赤城の小天狗と呼ばれた男」の関連ですが、東宮六郎治の母方の祖父が大友林兵衛重亀(明治12年5月10日卒73歳)です。その林兵衛の弟の養子が田口永八郎です。
大友林兵衛は樋口十郎左衛門定位及び佐藤善次郎敏則より隣家の大友市郎右衛門と共に念流太刀組目録を授与されます。

 

2006年02月11日

●よもやま話「赤城の小天狗と呼ばれた男」

 今から数年前、粕川・中之沢の別荘地でウッドデッキを制作している人と知り会いになりました。彼が使用していた古材の板の素晴らしさは、筆舌しがたい程でありました。何処で手に入れたか尋ねたところ「赤堀」との事。もうそれ以外考えられない…。彼は産廃の仕事をしているとの事で、その関係で入手したと。その他、もっと古材があると言うので彼の自宅迄行き見せてもらいました。
 その板は「練武館」と呼ばれた馬庭念流・本間道場で使われていた板材でありました。その他、音響効果を高めるため道場の下に埋め込まれた「かめ」等も彼が所有しておりました。それ以外に「門」の構造材等も…。
 本間念流とも言われたこの道場を開いた開祖は、本間仙五郎と言います。
 仙五郎は、1744年(延享元年)生まれであります。彼が13歳の時(1756年)父,権八郎を亡くし、極貧の中、度重なる不幸にもめげず家運再興のため一心不乱に働くと共に、剣術を学びます。それは無き父も自然流剣術の遣い手であったからであろうと思われます。そして、荒砥村で道場を開いていた荒木流の大山志磨之助道場に入門します。
 22歳の頃、赤城の滝沢不動に籠もり、血の出る様な修行を重ね、そして、大山先生から「赤城の小天狗」と称され免許を授けられるのです。その後、木暮村(現富士見村)の豪農須田氏を介し、馬庭念流の14世樋口先生の知遇を得て、馬庭念流に入門し、毎日、徒歩で往復し鍛錬に励みます。そして蓄財にも励み、上州で一、二と言われる名門の礎を作るのです。
 文化10年(1813年)、馬庭念流の永代免許を授けられます。それから2年後、仙五郎は72歳で不帰の客となります。
 仙五郎の跡は長男の仙五郎応吉(天明4年生まれ、明治7年90歳没)が継ぎます。この時、江戸の千葉周作と馬庭道場による一発触発の「伊香保神社奉納額」事件が起き、仙五郎の名を天下に知らしめました(司馬遼太郎の小説「北斗の人」を参照して下さい)。
 応吉の跡は応次が継ぎます。仙五郎応次には4男1女があり、長男は若くして死に、次男千代吉は貴族院議員になり、三男三郎は剣道範士、そして衆議院議員に。応次は晩年、甥の田口永八郎を養子として本間家を継がせます。筆者の曾…祖父、宮城村の初代村長、東宮六郎治の祖父、父と六郎治の三代に亘り、本間の門人でありました。安政4年(1857年)、湯の沢薬師尊、滝沢不動尊へ剣術奉納式を苗ヶ島・金剛寺に於て行います。その時、六郎治7歳にして、父の相手をして木刀の型を披露します。当日、最も人目を引いたのは、田口永八郎先生の居合曲抜きと六郎治の横室(富士見)の祖父(大友氏)の大刀抜きであったそうです。
 薬師尊、不動尊には5〜6尺位の額を奉納します。この時、各地から集まりたる兵法者の宿は、二階を含め全ての部屋を使い、当家一軒でまかないたりと、本間先生方は離れ座敷に宿泊せり。文久3年(1863年)、本間氏妙義神社へ剣術奉納、六郎治13歳にして同社前に於いて荒木流の居合を披露。明治2年、本間氏に剣術寒稽古教授を受けます。
 後年、六郎治の息子、東宮鉄男も良く剣を学び、武人として戦場に散ります。「東前」と言う我が家の分家から仙五郎の甥(剣士)に嫁いだ娘あり。また、馬庭・樋口道場主の友で有った木暮の須田又八も親戚なり