菩提寺金剛寺の年末行事「お焚き上げ」

 

今日はお寺の歳末行事お焚き上げを8時半から催す。

年末までにお寺に集められた仏壇仏具等を処分する行事。

住職がお経で霊を除いてから焼却処分にする行事。

その後、本堂に集まり、連絡事項や諸連絡と檀徒費徴収の依頼をやり一旦解散。

 

 

そのあと、お昼から曽川で先日のイベントの慰労会を兼ねた忘年会を

 

今年も一夜飾りになるのだろうか?

今年もあっという間に1ケ月を切ってしまいました。

年末になると来年こそは、来年こそはと、早くやらないと・・・そして毎年、大晦日に・・・何とか終わらせる事が・・・

今年もまた同じになってしまうのか・・・今年こそは・・・・果たして大晦日前に終わらせる事が出来るのだろうか?

何かって?・・・お正月飾りの事・・・一夜飾りは許される事では無いのですが・・・

金剛寺と大前田栄五郎 「商工まえばし」 11月号記事

 

 

 

金剛寺と大前田栄五郎

 

先月、10月25日の夜、苗ケ島町の金剛寺本堂に於いて、東日本大震災復興チャリティーイベント「大前田栄五郎生誕225周年記念・講談(栄五郎の生涯)と歌謡ショー」が金剛寺主催により盛大に催されました。金剛寺は栄五郎の生家、田島家の菩提寺であり、明治7年に亡くなられた折には、住職寛運師が喪主田島信太郎(妹なおの長男)の依頼により導師を務めております。今回の企画は住職の志田洋遠師と総代の櫻井敏道さんや檀徒役員の熱意により実現されました。昭和40年代だと思いますが、子孫の田島清一郎さん(信太郎の曾孫・元宮城村長、父親の荘次郎も村長を歴任)から聞いた話に、有名な侠客の子孫が一同に集まる会合に出席して来たと・・・)かつて宮城村時代に栄五郎親分の名を冠したイベントを組もうと企画した事がありましたが、その筋の流れを継承する方々がいるので難しいと断念した事を記憶しています。

さて大前田栄五郎親分に付いては明治の頃より今日まで、本や講談、芝居、映画等々で多くの人々の知るところであります。本稿では概略と寺の過去帳に残る記録だけに留めました。栄五郎は旧勢多郡大前田村川東の博徒久五郎(享和元年2月没50歳)親分の息子として寛政5年(1793年)に生まれました。長兄も父親の跡目を継ぎ「めくらの要吉」親分として近郷近在にその名を轟かせており、その様な環境の中で育った栄五郎は幼少の頃より撃剣を好む様な活発な子供で、胸に笠を抱えて走れば、笠が落ちないほど早く「火の玉小僧」と呼ばれていたと伝えらています。若い頃に縄張り争いから兇状持ちとなり故郷を離れ旅人生活が始まります。佐渡に流罪になったあと島抜けした話や、名古屋城下での活躍などが後世の語り草になっております。のちに「天下の和合人」と呼ばれる程の大親分になります。喧嘩の仲裁を依頼される名の有る親分には、和解成立後に、双方から多額の謝礼が送られるとの話をさる親分の息子から聞いた事があります。関八州に多くの賭場を持っていたとも伝えられていますので、それらは喧嘩の仲裁で預かった賭場だったかも知れません。国定忠治との関係も、こんな記録が群馬県史に記載されています。「嘉永3年(1850)7月、勢多郡大前田村の博徒大前田栄五郎、佐波郡国定村の博徒国定忠治に自決を促す、8月24日、佐波郡国定村の博徒国定忠治、関東取締役に捕らえられる。12月21日、博徒国定忠治が信州街道大戸関所で処刑され(41歳)関所付近の住民が警備人足などに動員される」

慶応3年10月には長兄の要吉が82歳の天寿を全うします。実家の墓石には子分や関係者とおぼしき70有余名の名が刻まれています。要吉の跡目は盲目の親分を側で支えていた田面の深沢祐七(心田院義岳要算居士、大正3年没81歳)、が要吉の名前を継承致します、墓地は雷電山の栄五郎の墓石がある高橋家墓地の一段下にあります。その右横にあるのは栄五郎が跡目にと考えていた田島考松(本名岩崎幸松、慶応3年3月没45歳)の墓石です。実家の岩崎家にも墓石があり、栄五郎が建てたと伝えられています。赤城神社境内参道脇右側には天保12年4月に赤城神社の大禰宜常味長門に献納された石灯籠があり、田島と刻まれ、栄五郎の寄進であると伝えられています。左側には同年7月に田嶋要吉を筆頭発起人とした寄進者50余名の名が刻まれた灯篭が建っています。かっては御師の門前に建っていたそうですが、明治になり境内に移設され現在に至っております。栄五郎は晩年、大胡町の向屋敷に住み、母キヨ(文政4年4月没58歳)の血筋である高橋家に嫁いでいた姪に世話になり余生を送ります。昔、堅気の皆さんに御迷惑を掛けたお詫びにと、近くを流れる川に掛かる大川橋の掃除をしたり、上町から江木方面に足を延ばし街道に落ちている馬糞掃除などをしていたと伝えられ、明治7年、畳の上で、兄と同じ82歳の天寿を全うします。金剛寺は役人に追われた栄五郎を寺の庫裏に匿った事があり、その恩義に報いる為に本堂前の石垣を寄進したとの言い伝えが残っています。明治34年に、それと思われる石垣を積み直したり、参道などの大改修がされていますので、寄進からかなり経っていたのかも知れません

ただ栄五郎の戒名に使われている「歓」の一字は歓喜院金剛寺の歓の一文字で、それを永代院号として許されているのは、檀家中一軒あるのみですので、金剛寺に対し特段の功績が有ったと想像されます。明治7年4月12日(旧暦2月26日)「明治5年11月9日より太政官布告第337により旧暦から新暦に変わる。」墓石は旧暦で表記されていますが、過去帳は新暦と旧暦が書かれています。「歡廣院徳壽榮翁居士、大前田村田嶋栄五郎事行年八十二歳」。兄、要吉は過去帳に「恵善栄果居士・大前田村川東栄五艮アニ」と記されています。

 

金剛寺主催のイベントが10月25日に盛大に催されました。

歌手の岡田しのぶさんと講談師の宝井梅湯さんが熱演を